「 自覚せよ、外交は冷徹な計算だ 」
『週刊新潮』 '06年3月16日号
日本ルネッサンス 第206回
「民主主義は単なる政体の形を超えて、我が国の国柄の精髄である」
米国のブッシュ大統領がこう語れば、インドのシン首相も応えた。
「民主主義と人権への情熱的誓い、法の前の平等原則への尊敬、言論と信条の自由への配慮が、我々をして一筋の道の同じ側に立たしめる」
ブッシュ大統領はさらに「我々は共通の価値観に基づいて戦略的パートナーシップを打ち立てた」と謳い上げた。5年前、「中国はアメリカの戦略的パートナーではない」と明言したブッシュ大統領が、その重要なキーワード「戦略的パートナー」を、正式にインドに捧げたのである。
3月1日から5日までのブッシュ大統領のアフガニスタン、インド、パキスタン訪問は、米国のアジア外交が大きくインドに傾斜し、中国との対立構図にさらに一歩踏み込んだことを示した。米国のアジア大戦略は音をたてて変わりつつあり、ブッシュ大統領の発言は、外交関係とはこのように変わっていくこと、国家とは国益によって動くという当たり前の、しかし、戦後の日本に欠落してきた点を見せてくれる。
インド訪問中に記者団がブッシュ大統領に向けた質問のなかに、インドの原子力開発への協力問題に関する鋭い問いがあったのは当然だ。
1970年発効のNPT(核拡散防止条約)は米英仏露中の5か国を「核兵器国家」と認定、それ以外の国には、IAEA(国際原子力機関)による核関連施設への査察受け入れを義務づけているのが国際社会のルールだ。日本を含む核の非保有国にとっては不公平な協定だが、核という大量破壊兵器が際限なく拡散していくよりは、不公平ではあっても核を限定し管理するほうが良いとして、世界はこの道を選んできた。
インドはしかし、NPTに加盟せず、独自に核を開発してきた。インドの核関連施設はいま、稼働中の原子炉15基、建設中の原子炉7基を含めて多数にのぼる。
激変する国際情勢
ブッシュ大統領は3月2日、そのインドに民生用核開発で協力することを表明、シン首相も「IAEAとの協議を進め、インド仕様のセーフガードを組み立てる」と語った。
記者会見では、インドへの特別待遇を認めたブッシュ大統領に、前述のように厳しい質問が出た。インドは98年以来核実験を繰り返したにもかかわらず、NPTに署名もしなかったが、この悪業への報酬が今回の合意かと問われたのだ。
ルールを無視して核を開発し、実績を作ってしまえば技術協力が与えられるというのか、であれば協定破りの国が得をする。それでよいのか、との問いだ。
ブッシュ大統領は物事も時代も変わる、指導者こそが変化をもたらすと強調し、さらに民生用の原子炉は化石燃料への依存を減らして環境保全と経済発展に寄与すると語った。
ルール破りを認めるこの合意には相当無理がある。“無理”は次の訪問国パキスタンで早速表面化した。
ムシャラフ大統領は当然のことながら、インドに与えたのと同様の核関連技術の提供を申し入れ、断られた。ブッシュ大統領は、「印パ両国は異なる国であり、そのニーズも歴史も異なる。米国の戦略はこれらの、広く周知されている相違に基づいて推進される」という素気ない回答で片づけた。
“相違”とは、パキスタンはインドほど信用出来ないという意味であろう。周知のようにパキスタンのカーン博士は核技術を秘密裡に世界に拡散させた。また、ムシャラフ大統領は軍人で、正当な選挙で選ばれたわけではない。会議の席でブッシュ大統領は、2007年に予定されているパキスタンの総選挙が「公平で正直なものでなければならないということを、大統領自身も理解しておられる」と述べた。公平で正直な選挙を心掛けよと、事実上、言いきかせたわけだ。
わずか4年ほど前、米国がどれほどパキスタンに感謝していたかを想えば、まさに“物事”も“時代”も変わったのだ。9・11以降のテロとの戦いでは、まず、アフガニスタンのタリバンが敵となり、その際にパキスタンの協力は米国にとって死活的に重要だった。しかし、現在の脅威は中国なのだ。中国に対処する十分な力の基盤を得るには、インドを取り込むしかない。幸いにもインドは民主主義と自由の国である。
ここで順番を間違えてはならないのは、国際政治の離合集散は、価値観によるよりも力によりがちだという点だ。たとえば71年、米国はソ連に対抗するため、パキスタン経由で社会主義の中国に接近した。自由と民主主義の国で同盟国の日本は、米中接近の大ニュース発表の3分前まで知らされず、同じく自由と民主主義の国インドも置き去りにされた。その結果インドは旧ソ連に接近した。
今回、双方が「歴史的」と讃える接近を果たした米国とインドが、民主主義、自由、人権の尊重を基盤にする国家であるのは、皮肉ではなく、幸いなことである。
中国の真の姿を論ぜよ
米印関係の緊密化は、日本にとっては好ましい展開だ。アジア全体に脅威をもたらす中国に対して、力のバランスをとり易くなるからだ。だが、米国がいつでも日本の側に立つとは限らない。ブッシュ大統領が中国の真の姿を見詰め、脅威と位置づけたのは、米国の歴代政権のなかではむしろ珍しい事例だ。米国政府はその歴史のなかで必ずしも中国の“真の姿”を見る努力をしてきたわけではない。そして、米国の、事実への理解の欠如が日本に煮え湯を飲ませたことがある。J・A・マクマリーという米国の外交官が、『平和はいかに失われたか』(原書房)の中にそのことを書き残している。
1935年の秋に上の著作を書いたマクマリーは、日本をアジアを戦争に追い込む悪役と見做した当時の米国の考えは間違いで、米中両国こそが「日本を知らず知らずのうちに、いまや米中両国に脅威を与えている攻撃的な国につくり変えていった」と主張、それを裏づける多くの事例を、緻密な分析で描き出した。
だが米国人は「中国への情緒的コンプレックス」(ジョージ・ケナン)故に、中国をありのままの姿で見詰めることが出来ず、熱病のような日本憎しの空気に染っていった。その先に第二次大戦と今の日本がある。
米国はようやくいま、中国の脅威に目を向け始めた。では、日本はどうか。中国は脅威である、と言っただけで批判が続出するのがいまの日本だ。中国の真の姿を論ずることも出来ないのでは、劇的に転換する外交に対処することも出来ない。だからこそ、政治家も官僚も、民間の私たちも、国際政治の大きな流れを刮目し、いま、冷徹すぎるほどの中国分析をしなければならない。幻想なしの分析から、はじめて日本の国益を守る道が見えてくる。
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